大地が教えてくれること 親子で畑へくり出そう!
専門家おすすめの城跡散策シリーズ、今回は北近江に勢力を張った京極氏ゆかりの地を訪ねました。近江を2分して治めた京極氏と六角氏の関係についても紹介しています。※取材は春に実施
- 山を借景とし、いくつもの景石を配した池泉(ちせん)鑑賞式庭園。中には虎に見立てた「虎石」と呼ばれる巨石も
今回案内してくれたのは
- 公益財団法人滋賀県文化財保護協会
- 写真左から
小林 裕季さん・山口 誠司さん・堀 真人さん
滋賀県内で文化財の発掘調査に取り組み、講演会などを通してその価値と魅力を発信
- 京極氏館跡
- 大名屋敷・詰めの城・家臣屋敷
の三つで国史跡
鎌倉時代から明治維新を迎えるまで大名家として存続した京極氏。訪ねたのは、1505年に家督争いを収めた京極高清が、東海と北陸を結ぶ要路・のちの北国脇往還(ほっこくわきおうかん)を押さえる伊吹山の南山麓に築いた京極氏館跡です。
館跡は伊吹神社の境内にあり、伊吹山登山者用の駐車場から歩いて10分ほど。景石(けいせき)が残る池泉庭園の遺構を眺めながら、「京都の足利将軍の邸宅に倣った大名屋敷のお手本のような造りで、庭では儀式や歌会が開かれていました。中国や朝鮮製陶磁器など当時貴重であった輸入品も出土していて、家格の高さや当時の先端を行く文化力がうかがえます」と堀さんは話します。鳥がさえずる静かな空間でそんな話を聞いて、戦乱期の遺構にもかかわらず、穏やかで風流なシーンを思い浮かべました。
約20年間、ここは北近江の政治の拠点となりましたが、家臣らのクーデターによりその役割を終えます。「下剋上を許した京極氏はその後、浅井氏の居城である小谷城の一画に移され、しばし表舞台から消えます」と小林さん。
館跡に向かう参道では、家臣らの屋敷地跡が現在の住宅分譲地のように並ぶ様子が見られ、山の中腹には戦に備えた詰めの城・上平寺城跡(標高669m)も残ります。大名屋敷、家臣団屋敷、詰め城の三つが国史跡に指定されていますよ。
- DATA 米原市上平寺
館と一体化?
伊吹神社鳥居
「伊吹神社境内の位置が京極氏館と重なることから、最近は『館を崇敬の対象にしたのではないか』という説がいわれています」と堀さん
五輪塔
伊吹神社本殿の傍らにひっそりと残る一族の墓。京極家の菩提(ぼだい)寺・清滝寺徳源院(米原市清滝288)に歴代当主の墓石が並ぶ墓所がありますが、現在は拝観休止中
- 鎌刃城跡
- 勢力争いが繰り広げられた
境目の城
中山道番場宿を見下ろす山の頂に築かれた鎌刃(かまは)城(標高384m)は、湖北では小谷城に次ぐ大規模な山城です。「江北と江南の〝境目の城〟で、諸勢力が奪い合いました。城主の堀氏は、京極氏と六角氏、後に浅井氏と六角氏、さらには織田信長の狭間に置かれ、何度も主君を変えました」とは山口さん。一時期、信長に湖北支配を任されるも、1574年に粛清され廃城になったとされています。
名神高速道路の高架下「彦根44」ガードをくぐって山に入るルートで登ったところ、約50分で城跡に到着。比較的緩やかな登りの一本道ですが、頂上付近は一部、道幅の狭い急斜面がありちょっとスリリング。主郭を中心に北、西、南の3方向に延びる尾根に曲輪や堀切、石垣、畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)などの防御システムが幾重(いくえ)にも設けられ、実戦でこれらを越えるのは難しかったのかもしれませんね。「中世城郭に石垣を多用しているのは、前回紹介した観音寺城と同じく非常に珍しく先駆的」(堀さん)
登りがい、見ごたえあり。ただ、途中で人とすれ違うことがなく、記者一人だったら心細かったかも。ヤマビルが出ることがあるようなので、服装や防虫スプレーで対策を。
- DATA 米原市番場、駐車場あり
眺望
北郭の、地元の人によって作られた物見台からの眺望は、山登りの疲れが吹き飛ぶほど雄大。右手の高い山が伊吹山。北郭西側の物見台から眺める果てしない山々も美景
大石垣
北郭の西斜面に残る、高さ約4mの大石垣。主郭も石垣で囲まれています
土木技術にびっくり
水の手
この水は約700m先にある「青龍の瀧」の水を、岩盤を掘って作った溝に流して運んでいるそう。土木技術が高かったのですね
立派な出入り口
桝形虎口(ますがたこぐち)
主郭の桝形虎口。「立派な石段、石垣の壁、礎石(そせき)が残り、大きな門があったことが想像できます」(小林さん)
六角氏&京極氏の豆知識
江南を治めた六角氏と江北を治めた京極氏ですが、元々は同じ佐々木一族。佐々木氏は、宇多天皇の流れをくむ源氏の一門です。
鎌倉初期、近江守護・佐々木信綱の息子の代になると、佐々木一族は「大原」(長男)、「高島」(次男)、「六角」(三男)、「京極」(四男)の四家に分かれ、それぞれ領地が与えられました。惣領家を継いだ三男の泰綱(やすつな)は京都六角東洞院に屋敷を構えたことから六角を名乗り、四男の氏信(うじのぶ)は京都京極高辻に屋敷を構えたことから京極を名乗ることに。その後、六角氏と京極氏が幕府とのつながりを強め勢力を拡大し、近江を南北に二分して治めました。
二つの家の家紋は似ていて、どちらも佐々木氏の「四つ目結紋(よつめゆいもん)」を用いています。六角氏の「隅立て四つ目結紋」に対し、京極氏は「平四つ目結紋」です。
- 六角氏の家紋
- 京極氏の家紋