滋賀の城跡ロマン探訪 vol.6
好評のシリーズ第3弾は、専門家の案内のもと有名な武将の居城跡へ。道すがら教えてもらった築城から廃城までの物語を交えて紹介します。イラスト/かわすみみわこ
- 案内人
- 公益財団法人 滋賀県文化財保護協会
- 佐和山城・八幡山城
堀真人さん(写真左) - 佐和山城
山口誠司さん(同右) - 八幡山城
小林裕季さん(同下) - 滋賀県内で文化財の発掘調査に取り組み、講演会などを通してその価値と魅力を発信
- 彦根市佐和山城跡
- あまたの争奪戦の舞台に
豊臣秀吉の重臣・石田三成の居城として知られる佐和山城ですが、その歴史は古く鎌倉時代初期、近江を治めていた佐々木氏の一族が佐和山(標高約233m)の麓に築城したのが始まりとされています。
「佐々木氏の流れをくむ近江南部を治めていた六角氏と北部を治めていた京極氏が領地の境目に立つ佐和山城の争奪戦を繰り返しました」と堀さん。その後も、京極氏に代わって台頭した浅井氏と六角氏、天下統一を目指した織田信長と浅井長政、関ケ原の合戦で東軍を率いた徳川家康と西軍を率いた石田三成など名だたる戦国武将が佐和山城を巡る戦に関わります。
「東に北国街道と東山道(中山道)の分岐点、西に琵琶湖が迫る佐和山城は、近江国内の小競り合いの場から、豊臣氏の時代になると東国を見張る畿内の入り口として全国レベルの重要拠点となりました」と山口さん。江戸時代に入り、井伊家が彦根城を築き廃城。徹底的に壊され、多くの資材が彦根城建設に利用されたそう。
遺構がほとんどない分、想像をかき立てられる山登り。現在は井伊家菩提寺・龍潭寺境内から本丸跡の山頂を目指すルートのみ開放されています。尾根に出るまでは一部、道幅の狭い急斜面あり。30~40分で本丸跡がある頂上に着きます。
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DATA
JR彦根駅から登山口(龍潭寺)まで徒歩約20分。登山口に駐車場あり(無料)。※佐和山城は龍潭寺と清凉寺の所有地。5人以上の団体で登る際は清凉寺=TEL:0749(22)2776=に電話して、あらかじめ入山許可を得ること
- 雄大!
- イ眺望
本丸跡から彦根市街や琵琶湖を望む景色は壮観。西側約2km先に彦根城が見えます。日本列島の東西を結ぶ要衝を抑えた2つの城を一緒に巡り、時代の移り変わりを感じるのも良し
- 探して
- ロ隅石垣
わずかに残る隅石垣、土塁や竪堀の名残を見つけると、宝探しみたいなうれしい気分に。頂上付近に、山上の貴重な水源だった「千貫井(せんがんい)」という井戸跡が
- 近江八幡市八幡山城跡
- 美しい城下町の面影残る名城
1585年、豊臣秀吉のおい・豊臣秀次が築いた八幡山城。「織田信長の安土城に代わる、豊臣政権の近江支配のシンボルとして築かれた城です。畿内が平定されていた時期なので、軍事拠点というより政治や経済の拠点でした」と小林さん。
弱冠18歳だった秀次ですが、安土城下の人々を八幡山城下に移住させ、楽市楽座を導入し自由商業の町を起こすなど、一時は秀吉の後継者と目された手腕を発揮。「秀次は城の防御施設でもある八幡堀を琵琶湖とつなぎ、湖を往来する船に八幡への寄港を義務付けました。町中を通る朝鮮人街道と琵琶湖といった水陸の要衝を抑え、人と物が集まる町をつくりました」と堀さん。秀次の後、京極高次が在城した八幡山城は10年で廃城となりますが、町はその後も発展を続け、近世近江商人の活躍につながったといわれています。
取材ではロープウエーを利用して八幡山(標高272m)山頂付近へ。上るにつれ、碁盤目状に整備された美しい城下町が見渡せ、気分も上昇! 山上は観光地化されて歩きやすく、西ノ丸跡、北ノ丸跡、本丸跡などを40分ほどで散策できました。帰りは山麓の大手道に立ち寄って下山。途中、一部急斜面あり。
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DATA
JR近江八幡駅からバス大杉町停下車、ロープウエー(片道500円)乗り場まで徒歩5分。日牟礼八幡宮の駐車場利用可(無料)
- 近江独特
- ハ眺望
北ノ丸跡からは安土山、佐々木六角氏の居城・観音寺城があった繖山(きぬがさやま)が眺められ、近江の城の多さを実感。西ノ丸跡から望む琵琶湖と盆地と山が織りなす景色も近江特有です
- ニ村雲御所瑞龍寺
本丸跡に建てられた秀次の菩提寺。城門のあった場所につくられた山門に枡形虎口(防御設備)の名残が
- あちこちに!
- ホ石垣
山上の城郭にも、山麓に近い屋敷地跡にも石垣の遺構が至る所に残ります。写真は大手道沿いに残る秀次居館跡の石垣
- 風情たっぷり
- ヘ八幡堀
城下町の動脈として活躍した八幡堀。堀沿いに並ぶ土蔵が風情を引き立てています。